ローマ史を読みました 2古代では戦いに負けたら皆殺しにされるか奴隷になってしまうと書きましたが、日本の場合はそうなっていません。記録の無い古代は別として、源平時代や戦国時代は城主などの支配者は殺されていますが、下級の兵士や百姓は何の変化もありません。 そもそも日本には昔から奴隷というものが存在しません。 だから負けた部族が皆殺しにされるか奴隷という感覚が日本人にはなじみにくいと思います。 古代ヨーロッパだけでなく、支那でも王朝末期の戦乱で人口が良くて半分、悪くすれば十分の一にまで減っています。 何でこれほど違うのだろうとかねてから疑問に思っていました。 この疑問は日本の農学部の先生やトラクタメーカーの研究員の話を聞いているうちに次第に分かってきました。 日本とヨーロッパの農業のやり方が違うというのが大きな原因です。 古代のヨーロッパには農業用の土地はたくさんあったが、日本では限られていたということです。 日本は土地が狭く人が多いという単純な話ではありません。 日本の稲作農業は土地だけあっても出来ず、水が必要なのです。 春から夏にかけては十分な水が必要で、刈り取りの前には排水しなければなりません。 すなわち十分な水があり、それをコントロールできるような場所でないと農業ができないのです。 こういう条件に一番適しているのは小川が流れている山麓の狭い土地で、ここでは水のコントロールが簡単に出来ます。 このような土地が古代の農業の中心地であり都があったのです。 飛鳥の甘樫の岡から大和三山の方を見ると、古代の日本人の国というものがどんなものだったか実感できます。 大きな川の下流の平野が農地になったのは室町時代以後で、それ以前は大河をコントロールする土木技術がなく、無人の荒野でした。 日本では農業できる土地が限られていますから、土地さえ確保すれば実際に働く人間など向こうから集まってくるのです。 だから領主が自分の縄張りを確保し灌漑をしっかりやっていれば、後は百姓から年貢を徴収すればよいのです。 日本人が力や法律で人間を押さえつけようという感覚に乏しいのももっともです。 ヨーロッパの農業では極端に言えば平野があればよいわけで、そこで働く労働者の確保のほうが大変です。 麦を作る場合、地中の土を掘り起こし空気に触れさせなければ麦が丈夫に育ちません。 人間の力では足りずに家畜に巨大な鍬を牽かせ地面を深く掘り起こさなければならないのです。 ヨーロッパの農業が牛や馬を使うのはこうした理由です。 農業ができる土地の条件が難しくないので、領主の関心事は如何に百姓を真面目に働かせるかという人事問題に集中します。 放任しておけば、逃げ出して新たな土地を自分たちで開拓してしまいます。 ヨーロッパでは、敵の部族を負かした後、敗者がおとなしく奴隷労働をするならば生かしておいても良いのですが、反抗的なら殺すしかないわけです。 しかしこの場合には前にも書いたように、勝者が自分たちの戦力を増やすことが難しくなります。 打ち負かした相手を味方にすれば、戦力が増えると同時に敵の数が減り、敗戦によって悲惨な目に遭う確率が下がります。 打ち負かした相手を味方にすれば都合が良いということぐらい誰でも分かります。 しかし普通では、勝った部族と負けた部族は風俗・習慣が違い、なかなか融和しません。 勝った方は敗者の土地を奪ったり略奪したりしますから、よけいに仲が悪くなります。 ですから普通は敗者を皆殺しにしたり全員奴隷にしたりしないで存続を許す場合も、軍事力で押さえつけるような条約を結びます。 敗者は彼我の実力がかけ離れている時は我慢して勝者に従いますが、勝者が落ち目になったら叛旗をひるがえします。 中途半端なことではかえって将来に禍根を残します。 ローマはその建国の初期の段階で、敗者を味方につける戦略というより敗者と一体になる戦略を徹底的に実行して成功したのです。 建国当時のローマのことは良く分かっていません。 なにしろ全人口が一万人(奴隷などはほとんどいなかったでしょう)に満たない弱小の都市国家で、刀を振り回せるだけの力のある男を全員かき集めても3000人ぐらいだったでしょう。 場所も地中海の沿岸でなくすこし内陸に入ったところで、交通の便の悪い誰も注目しない田舎でしかありませんでした。 同じラテン民族のアルバという都市を下したときは、町を破壊し住民をローマに強制移住させローマ市民権を与え、有力者は元老院議員にしました。 このときローマの元老院議員になったアルバの有力者にユリウス・カエサルの先祖がいました。 ローマの名門貴族も、たいがいはどこかの時点でローマに破れてローマ人になった者の子孫です。 建国間もない弱小なローマにとって、戦いに敗れて悲惨な目に遭わないようにするにはどうしたら良いかという問題を必死に考えたでしょう。 その結果、勝者の権利である略奪や敗者の奴隷化を放棄して、敗者と禍根を残さないような同化という戦略を思いついたのでしょう。 この大戦略が世界史を変えることになります。 「三つ子の魂百まで」というように、この大戦略はローマが強大になり天下無敵になった後まで継続されます。 自国の安全を守るというのが、建国当時から滅びるまでのローマの基本方針でした。 そのために自分より弱小な国を味方につけて、軍事同盟を維持するにはどうしたらいいかを考え続けたのがローマの歴史です。 ローマが滅びた後も、およそ覇権国家として頑張っていこうと考えた国のモデルになっています。 イギリスでローマ研究がもっとも盛んなのもこうした理由です。 またアメリカも自国をローマの後継者と自認しています。 初めての移民であるピルグリムファイザースの銅像が彼らの上陸地であるボストンにありますが、ローマの元老院議員の服装であるトーガを着ています。 上院の名称はローマの元老院(senate)をそのまま使っています。 第二次世界大戦で廃墟となった日本とヨーロッパを復興させた上でNATOや日米安保同盟を締結したやり方は、ローマの方針そのものです。 また現在の支那は、日本が支那の価値観を受け入れていないとして非難を繰り返していますが、これも風俗・習慣を支那化し、自分が世界の中心にならなければ収まらない支那人の伝統的発想です。 勝者が敗者に風俗・習慣や宗教を押しつければ反発されますから、ローマ人はそんなことは極力避けました。 ただ軍事同盟を結んでお互いの安全を共同で守ろうという契約を交わしただけです。 ただまるっきり無償で敗者を許したのではなく、相手が我慢できる程度の代償は要求しました。 敗戦国の国有地の何割かをローマに譲り渡させましたが、ローマはここを自国民に安く貸し出しました。 貧しい市民に耕す土地を与えることで生活を保障したわけですが、敵が攻めてきたら彼らを戦力として活用することもできます。 ローマの元老院議員は優位な立場を利用して制限以上に広い土地を借り入れそこに奴隷を送り込んで働かせましたが、このへんがローマの元老院議員の蓄財のネタになりました。 敗者としては、この程度の犠牲で強大なローマが自国を守ってくれるわけですから納得したわけです。 また敗者の有力者にはローマ市民権を与えたり元老院議員の椅子を与えたりして懐柔したわけで、彼らは積極的にローマの覇権を認めるようになっていきました。 この程度のことであれば敗者はローマの支配を容認するという程度で、子孫が随喜の涙を流して感激するほどのものではありません。 敗者がローマの支配を歓迎したのは平和の代償が大きかったからです。 弱小な部族が狭い土地に住み着いているが、周囲の敵がいつ攻めてくるか分からないという状態を想像してください。 夜は城壁のある町の中で寝なければ安心できません。 夜明けと共に、農具と弁当を持ち家畜を連れて自分の畑に行き、一日働いた後は日が暮れるまでには町に帰らなければなりません。 ということは、日帰りの往復が出来るせいぜい周囲5~10キロメートル程度の半径の中しか農地を持てないということです。 それがローマと軍事同盟を結んだことにより、敵や盗賊の襲撃を心配しないでよいとなったら、町から遠く離れた土地を開墾しそこに住み着くことが出来ます。 ローマの支配を受け入れることによって農業生産が飛躍的に増え、非常に豊かになり人口も増えました。 商業でも同じで、通行の安全が保障されて始めて成り立つ商売です。 ローマの版図の中は急激に豊かになっていったのです。 ライン川やドナウ川の向こうから豊かなローマの領内を狙ってゲルマン人が侵入を繰り返しましたが、彼らの住んでいた土地が寒く痩せていたからだと書いてある歴史書があります。 おかしな話で現在のドイツの人口密度はフランスやイタリヤより高く食料の自給もできています。 同じく蛮族の住処だったウクライナは有名な穀倉地帯です。 土地が痩せていたのではなく、治安が悪くて農業や商業を安心してできなかったからいつまでも貧しかったのです。 平和と治安がいかに産業活動に大切かが分かります。 安全と治安が確保された結果自分たちがみるみる豊かになっていったので、敗者たる弱小部族はローマの支配を本当に納得したわけです。 カエサルがガリアを征服し多くの部族国家と軍事同盟を結びましたが、これによってガリア人は仲間同士の紛争やゲルマン人の襲撃から身を守ることが出来るようになりました。 カエサルが少しぐらい不正を行って蓄財をしても、そんなことは問題にならないぐらいありがたいことであったわけです。 感激のあまりガリア人は、自分たちの言葉を捨てラテン語を話すようになっていきました。 現在のフランス語はラテン語が変化したものです。 この辺もアメリカはローマに学んでいます。 ヨーロッパや日本の安全を保障し、アメリカの市場をこれらの国に開放して儲けさせてやりました。 同じことは戦前の日本にも言えます。 支那、満州、朝鮮、台湾は日本がやってくるまでは盗賊であふれ、政府の不正が横行し、疫病が蔓延していました。 それを日本が治安を回復し、衛生状態を改善してやりました。 そのうえ近代的な社会制度・インフラや工場ももたらしました。 江戸時代以来の日本はアジアの盟主だという自覚に基づき、アジア諸国を自立させることによって日本の独立を補強するという戦略がそうさせたのです。 私は日本人が何故支那人や朝鮮人・台湾人に感謝と補償を要求しないのか不思議でしょうがありません。 ローマは強大になり弱小諸国と軍事同盟を結んで、支配する領域内の安全と治安を維持しました。 それによって広大な版図の内部は産業が活発になり生活が豊かになっていきました。 ローマの版図は広大で、今の国でいうと凄い数になります。 イタリヤ、スペイン、ポルトガル、イギリスの一部、フランス、ベルギー、ドイツの一部、スイス、オーストリア、ハンガリー、旧ユーゴスラビア、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、トルコ、アルメニア、シリヤ、レバノン、イラクの一部、エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、その他 地中海沿岸をグルっと囲んだ版図内に現在は5億人ぐらいが住んでいますが、ローマ時代の人口は8000万人程度と推定されています。 衰退期にローマは東西に分裂しますが、一番大きな原因は外敵から版図を守る方法が違っていたことです。 東は国境をペルシャに接していましたが、ペルシャは豊かな大国で別にローマの富を略奪に来るということはありませんでした。 大国のプライドからローマに譲りたくないという思いが強かったのです。 また専制君主国で、国内の諸豪族の不満をそらすためにも外敵を必要としていて、ローマがその標的になっていたのです。 ローマと戦争をする際にも、時間をかけて大軍を編成し堂々と押し出してくるという具合でした。 だからローマのほうもペルシャが侵攻してくる情報を得てから時間をかけて対応することが出来ました。 一方西ローマは、北側の国境がドナウ川とライン川でその向こうから蛮族が頻繁に侵入して来ました。 彼らは貧しくプライドもなく、ただ生活のために物資を略奪し人間を奴隷として連れ去り逆らう者は皆殺しにしました。 ゲルマン人などの蛮族は部族単位で行動していて、いつ川を渡って侵入してくるか予測がつきませんでした。 ですから西ローマもドナウ川、ライン川の沿岸に多くの軍団を駐屯させ絶えず警戒していました。 これらのローマ軍のおかげで弱小同盟国は安全と経済的繁栄を楽しんでおりローマ高官の不正には目をつぶっていたわけです。 このように西と東では敵の性格が違い対応も違っていたので、各自が自分の版図を守ったほうが効率的だろうということになって分裂したのです。 外敵侵入の被害は東より西のほうが大きく、それだけ強いローマ軍の存在はありがたい存在でした。 この西ローマの版図だったヨーロッパが、同じローマ文化を共有しているという一体感を持ち続けたのももっともと思います。 尚、北アフリカの西半分も西ローマの版図で非常に豊かな土地でしたが、ローマが滅びた後イスラム教が浸透し、ヨーロッパとの一体感がなくなってしまいました。 ローマの大戦略は非常に単純です。 自国が戦争に負け、国民が殺されたり奴隷にされたりすることを避けるというものです。 この目的を達成するために、弱小国と軍事同盟を結び共同で敵に当たることにしたのです。 ローマは隣の国と戦って勝ち、勝った優越した状態で軍事同盟を結びました。 新たに軍事同盟を結んだ弱小国が敵の攻撃を受けると、ローマは条約の規定に従って出兵し戦いました。 そしてまた勝ち、版図が拡大していきました。 こんなことを長い間続けているうちに、いつの間にか大帝国になったのです。 ローマと弱小国の関係は軍事同盟であり、それ以上の関係を持とうとは考えませんでした。 言語・風俗・宗教などの部族固有のものをローマと同じにしようとはしなかったのです。 これをすると相手は不当な介入だと嫌がり同盟関係にひびがはいってしまうからです。 ローマとの一体感を作るためには、弱小国の国民にもローマ市民権が得られるチャンスを残し有力者をローマの元老院議員にするという方法をとりました。 部族ごとの風俗・宗教をそのまま認めてはいましたが、やはり広大な版図を統治するためには共通の価値観がどうしても必要になります。 そこでローマ人が利用したのが哲学でした。 ローマ人は哲学的ではなく、独自の哲学を作り出したわけではありませんが、ギリシャ哲学を借用したのです。 ギリシャのゼノンという哲学者がストア派の哲学を提唱しました。 宇宙はロゴスという自然法則に支配されていますが、人間も内心にロゴスを備えています。 そして人間はこのロゴスに従って生きていけば精神的安定が得られるのです。 ストア派の哲学とは、情念や欲望を抑えてロゴス(自然法則)の命じる義務に従えば幸せになれるというものです。 情念や欲望を抑えて義務に従うという考え方はローマ人の伝統的な生き方だったので、このストア派哲学はローマ人の間に急速に広がっていきました。 ロゴスは全ての人間が内心に持っているもので、個々の部族の習慣に囚われないものです。 従ってストア派の哲学を基礎にローマの版図全体に適用されるルールを作れば、風俗・宗教の違いを超えて全ての人間に妥当するはずです。 ローマの支配を受け入れた部族の指導者は、その多くがローマ市民権を持ちローマ式の教育を受けましたから、当然ストア派哲学も学びました。 ローマ人がストア派の哲学に基づいて考え出したルールは、版図全体で受け入れられていったのです。 このようにして、ローマ人は風俗や習慣を統一しないでも、ローマ世界全体に共通する価値観を作り出すことに成功したのです。 このルールの集大成がローマ法であり、近代ヨーロッパの法律の基礎になりました。 ローマは弱小国と軍事同盟を結んでその安全を確保し、ローマ法によって版図内の価値観の統一を進めたのです。 ローマが衰退し滅びてしまったのは、ローマの軍事力が弱くなって弱小国の安全を守ることが出来なくなったからでした。 軍事的に弱くなった理由はたくさんあり、それこそギボン以下多くの学者が研究しています。 簡単に言えば、ローマの覇権の基礎は軍事力であるという意識が次第に希薄になり、それに伴って戦略的思考も衰えていったからでした。 ローマの国力が上り坂であったときは、ローマ人は軍隊に勤務することが当然の義務だと信じて疑わなかったのです。 それが次第に軍務を忌避するようになり、最終的には職業軍人に防衛を任せっぱなしになりました。 ローマ軍の強さのもとは、自作農からなる重装歩兵でしたが、貧富の差が拡大するにつれてこの自作農が没落していきました。 ローマの支配者は自作農の没落を防ぐことが出来なかったのです。 ローマの支配が安定するにつれて国家の組織も整備されていきましたが、しだいに組織を運営していくことに関心が移っていって、現在の繁栄は数々の戦勝に基づいているという自覚が乏しくなって行きました。 その結果、戦争で勝てなくなってしまったのです。 ローマの大戦略は、自国とその同盟国を敵から守るという軍事的なものです。 ですからローマの組織も考え方も極めて軍事的です。 ローマ初期の王は何よりも軍司令官でした。 王政が廃止になり執政官(大統領)が選挙で選ばれるようになりました。 大統領が一人だと彼が王になる野望を阻止するのが難しいとして、大統領を同時に二人選出し互いに牽制しあうことにしました。 また任期も一年と定めて王政への可能性を封じました。 戦争のときは二人の大統領が軍司令官になったのです。 戦争に勝つのに何よりも大切なのは、「スピード」と「命令系統の統一」です。 戦争では敵と味方の状況は刻々と変化しますから、それに臨機応変に対応しなければなりません。 ですから戦争を会議で指導するというのは愚策で、会議に時間をかけて結論を先延ばしにしている間に更に状況は変化します。 やっとのことで結論を出しても、その時点では会議で議論した状況とは変わってしまい誤った結論になることが多いのです。 また戦争は一貫した戦略に基づいて行わなければなりません。 刻々の小さな現象に気をとられていれば、全体として効率的なものにはなりません。 一つの統一された判断がなされなければならないのですが、最高司令官が複数いれば、しばしば意見が対立して一貫した戦略が実施されません。 ローマの二人の大統領という制度は、この「命令系統の統一」に反します。 そこでローマは更に「ディクタイトル」という役職を臨時に設けることにしたのです。 超非常時に、民会の決議によってただ一人の「ディクタイトル」を選出するのです。 「ディクタイトル」は独断で全てのことを決めることができる軍司令官です。 これによって戦争時の「スピード」と「命令系統の統一」を確保することが出来るわけです。 ただし、「ディクタイトル」の任期は半年に制限されていました。 この「ディクタイトル」という言葉が、「ディクテーター」という英語になりました。「独裁者」という意味です。 ローマ市民は、王政がしばしば市民の利益に反すると考えて共和制(言葉が適当ではありませんが他に無いので使います)にしました。 市民によって選出された代表者たちが政治と軍事を行うという制度です。 ところがこの合議制と複数制は、戦争に必要な「スピード」と「命令系統の統一」に反します。 この両方の調整をギリギリのところでとった結果が、ローマの政治制度だったのです。 ローマの大戦略が軍事的なものだということは、王位や後の時代の帝位の世襲という問題にも影響します。 軍事の天才だったナポレオンは「羊に率いられた狼の群れより、狼に率いられた羊の群れのほうが強い」と軍事の本質を喝破しました。 個々の兵の素質もさることながら、将の資質が勝敗に決定的な要素だということです。 将としての才能というのは、教育によって獲得できる後天的なものではなく、先天的な資質のようです。 軍事の才能は遺伝しません。 ですから、軍事的な社会では王位は世襲ではありません。 ローマと同じような軍事的な社会だったギリシャやゲルマン、さらには騎馬民族のモンゴル人の社会でも王位は世襲ではありません。 先王の長男だったというだけの理由で軍事的な才能の無い凡夫を王に戴いていては、戦いに負け部族が消滅してしまうからです。 確かにこれらの社会でも王の一族が次の王になることが多いのですが、事情は少し違います。 もし軍事的な才能だけを問題にして氏素性を一切問わなければ、候補者が乱立して収集がつかない状態になってしまいます。 そこで候補者を一定の範囲に絞り込もうというのがこれらの社会です。 例えば、ジンギスカン後のモンゴルでは、大ハン(皇帝)はジンギスカンの子孫であるボルジギン氏族のなかでクリスタイ(部族長会議)の指名を得た者がなりました。 クリルタイで候補者の中から軍事的才能のある者を選んだのです。 このように、ヨーロッパの社会では王や大統領は何よりも軍事的指導者なのです。 東アジアでは、皇帝や王は軍事的指導者という要素は希薄でむしろ宗教的権威という意味合いが濃厚です。 支那の皇帝は、天という絶対者からこの世の統治を命令された者で、支那の道徳を体現した人物とされます(現実にはそんな立派な人間はほとんどいませんでしたが)。 日本の天皇というのは、天照大神の子孫だとされている血統が宗教的権威を持つに至ったものです。 実際にはこの血統は捏造されたものですが。 天皇は血統だけが基準で、軍事的能力、道徳的資質のいずれも要求されていません。 軍事力を維持しようとすれば、統治権の世襲を制限しなければならないようです。 軍事的な能力は遺伝しないからです。 ローマでは、王政時代も後の帝政時代も統治者の世襲は制限されていました。 ところがローマも末期になってキリスト教が浸透し、皇帝は神が決めたものだという王権神授説が出てきました。 このときに皇帝の世襲制度が確立し、凡夫が皇帝になるようになってから戦争にほとんど勝てなくなりました。 ローマが滅びた理由の一つは帝位を世襲したことです。 ローマが滅びた後のヨーロッパの諸王国では王位は王権神授説によって世襲になりました。 中世ヨーロッパでは、カトリック教会の権威によって社会が維持され、王の軍事的能力は絶対的ではなくなりましたから、世襲でもなんとかなっていました。 しかし近代になりカトリックの権威が落ちて、各国のむき出しの軍事力がものを言う時代になると王の世襲が問題になってきました。 その解決の一つが王政の廃止です。 もう一つが、「君臨すれども統治せず」という、その国の基本原理を王に象徴させて、実際の政治や軍事は才能のある者に任せるというやり方です。 勿論これだけが近代ヨーロッパの政体が変化した理由ではありませんが、こういう理由もあると考えます。 「象徴だから日本の天皇制もイギリスの王政も同じだ」という乱暴な議論がありますが、両国の国家の基本原理が違いますからまるで違うものです。 現在のイギリス王家は17世紀末の名誉革命によって出来たものです。 ですから現在のウインザー王家は、民主主義・自由という革命の原則を象徴しているものです。 一方、日本の天皇家は天照大神の子孫だと称しているということです。 そしてこれは「あるべきようは」という日本人の思想を体現し象徴しているものです。 「あるべきようは」については、私は著作やブログで何度も説明してきましたから、ここでは詳しい説明はしません。 王位の世襲と軍事力は並存しないという事実は、日本の武士にもあてはまります。 戦国時代というむき出しの軍事力の時代になると、嫡男だという理由だけでは大名は勤まらなくなってきました。 ですからこの時代の大名は、跡目争いをして勝った男たちです。 上杉謙信は兄を放逐し、武田信玄は父を追い出しました。 毛利元就や宇喜多直家は主家を討伐し大名の位置を勝ち取りました。 織田信長の父は、尾張の守護家の家来のそのまた家来という身分から頭角を現し、息子の信長は弟を殺して跡継ぎの座を守りました。 このように戦国時代の大名には、嫡男が相続するという制度は確立していませんでした。 江戸時代も安定期になって軍事が重視されない時代になってやっと嫡男の相続が確立しました。 軍事的才能は個人の資質によるという事実は幕末でも発揮されました。 この時代に活躍した志士の大部分が剣客でした。 坂本竜馬、桂小五郎、武市半平太といった重要な志士は江戸の三大道場の塾頭をしていた剣の秀才でした。 剣道と軍事は違いますが、この時代まともな軍事教育が無かったので、志士たちは剣を通じて「スピード」と「統一的戦略」の重要性を自得していったのです。 西郷隆盛は軍事的な才能がありませんでしたが、大久保利通によってその欠点がカバーされました。 彼の無能ぶりは、日本最強の薩摩武士団を率いていたのに西南戦争であっさりと負けてしまったことでも分かります。 士卒の統率は上手かったのですが戦略的思考が出来なかったのです。 大久保利通は不思議な男で、特に剣を学んだわけでもないのにその軍事的才能は定評があります。 やはり軍事的才能は教育ではなく、先天的なもののようです。 結局、明治維新は軍事的才能に恵まれた武士たちによって成し遂げられましたが、この恵まれた条件は日露戦争まで続きました。 日本が日露戦争まで順調に勝ち進むことが出来たのは、軍事での「スピード」と「統一的戦略」が守れたからだと思います。 明治維新で出来た政体は「藩閥」で、薩摩と長州の志士が実際の政治を行いました。 明治20年代に大日本帝国憲法が施行され、三権分立の体制が出来ましたが、まだ「元勲」の力が強い状態でした。 日露戦争まで生き残った志士上がりの元勲は、伊藤博文、山県有朋、大山巌です。 これら実際に戦争を経験し軍事的才能にも恵まれた少数の元勲は、長年の付き合いでお互いの気心も知れていました。 彼らの合意を天皇の権威で実施出来たので、日露戦争までは「スピード」と「統一的戦略」が確保できたのです。 彼らが死に絶えた以後の日本は、「合意」をもっとも重視する伝統的な日本の社会になってしまいました。 「合意」は、運命共同体である陸軍や海軍でも重視された結果、誰が最終的に決断したのか分からない状態になってしまいました。 第二次世界大戦の英雄としては山本五十六などがいますが、彼らは前線の指揮官というだけのことで、日本全体の戦略を担当したわけではありません。 第二次世界大戦の各国のリーダーは、ルーズベルト、ヒットラー、チャーチル、スターリンおよび東条英機です。 外国の指導者は実際に戦争にリーダーシップを発揮しました。 ルーズベルト大統領などは、真珠湾攻撃を演出するなど実際にアメリカの世論を喚起した大変な戦略家です。 しかし東条英機だけは、軍部の代表というだけの話で戦略的思考をしたというふしがありません。 開戦にも受身で「他に方法が無い、仕方が無い」という程度の感覚で戦争をしています。 戦略とは目的をはっきりさせることです。 まずは敵をはっきりさせることで、敵は支那なのかアメリカなのかを明確にし、他の要素を目的に合わせていくという作業をしなければなりません。 アメリカが最終的な敵であったら、敵をアメリカに絞り込みその他の雑多な要素は整理しなければなりません。 問題が支那の軍閥の混戦であったのなら、それの収拾に集中すべきでアメリカと敵対してはなりません。 東条英機はこの様な戦略的な思考ができる男ではありませんでした。 彼は真面目な性格で決して性格異常の変な男ではなく、ただの将軍だったら立派に勤めたでしょうが、一国の戦略を考え出す能力はありませんでした。 合意を重視した結果、独断専行のナポレオンや坂本竜馬のような天才的な戦略家を排除し、東条英機のような無難な男を選んだ日本人の思考が敗戦の大きな原因だと思います。 話がすこし横道にそれてしまいましたので、本題に戻ります。 ローマの大戦略は自国の安全を守ることでしたから、政体もその目的に合わせて変えました。 ローマが王政を共和制に変えたのはまだ領土が狭いときでした。 その後版図がどんどん拡大していきましたが、ローマの共和制はティベル川の岸にあった都市国家当時のものでした。 法律や大統領を決める民会はローマ市の広場で開催されましたが、共和制末期のローマ市民は400万人ぐらいいて、広大な版図に散らばっていました。 昔ながらの民会は機能しなくなっていたのです。 元老院という非常に重要な機関も都市国家時代の思考のままで、ローマという都市国家をいかに守るかというのが思考の中心でした。 たしかにローマという都市を守ることからローマの戦略はスタートしました。 しかし多くの同盟国を抱えその外側に敵がひしめいている状態では、同盟国を守らなくては現状の軍事同盟関係が崩壊し、ひいてはローマ市の安全も保てません。 このような状態で、ローマはいかにあるべきかという大問題が起こり、考えが分かれて内乱時代に突入しました。 従来どおりの元老院を中心にした体制で良いと考えるのが共和派でした。 これに対して現状を直視するべきで都市国家の体制に固執するのは誤りだとする一派がいました。 この一派はユリウス・カエサルに繋がっているので帝政派といっても良いでしょう。 帝政派のマリウスと共和派のスルラは内乱を繰り広げ、反対派を多数暗殺するなど血なまぐさい時期が続きました。 そしてユリウス・カエサルが登場してきます。 このときの共和派の中心人物がポンペイウス将軍で、広報係がキケロという弁論家でした。 ユリウス・カエサルとポンペイウスは大いに戦ってカエサルが勝ちましたが、その直後に暗殺されてしまいました。 そのカエサルの跡目を、甥のオクタビアヌスと一の子分のアントニウスが争い、オクタビアヌスが勝ちました。 カエサルやオクタビアヌスの主張を簡単に言うと、広大な版図全体を一つの組織体として扱わなければならないということです。 そしてこの組織の中心がインペラトールだということです。 共和派と帝政派の間で内乱が起きましたが、共和派は広大なローマの版図の仕組みを昔からの伝統的なものと理解していました。 すなわち、都市国家であるローマと数多くの国とが軍事同盟を結んでいる関係だという理解です。 ローマは都市国家だから、元老院と民会を中心に従来どおりの共和政治をしていれば良いと考えたのです。 一方の帝政派は、広大なローマの版図は多数の国家に分かれている状態であると同時に、もはや一つの統一体にもなっていると認識していました。 だから元老院と大統領という都市国家の組織に広大な版図の政治と軍事を任せるべきではなく、軍隊の総司令官たるインペラトールが全版図の安全に責任を持つべきであると考えたのです。 ここにも、自国の安全を守るというローマの大戦略は受け継がれています。 インペラトールと都市国家の大統領や王とは別のもので取って代わるべきものとは考えていませんでした。 ローマという都市国家は従来どおり存在してもよく、あちこちある小さな部族国家を従来からの王が治めていても問題はありません。 しかしこれらの大統領や王はもはや版図全体の安全の責任を負うべきものではないと考えたのです。 つまり、従来の大統領や王とは別に、全版図の安全に責任を持つ新たなインペラトールという役職を設けたのです。 従って、インペラトールが現れた後でも、ローマの大統領や元老院は存在し続けました。 ただし、広大な版図の安全を確保する責任は取り上げられ権限は次第に縮小していきました。 インペラトールという名称は、インペリウムというラテン語から派生しました。 インペリウムとは命令という意味です。 インペラトールは命令する者、司令官、凱旋将軍という意味で、総勢30万人になるローマ軍の総司令官にふさわしい名称です。 このインペラトールの訳語に、日本人は皇帝という支那語を使ってしまいましたが、これは誤解を招きます。 ローマのインペラトールという言葉は日本語に訳すのが難しい言葉だと思います。 敢えて訳せば「総司令官」となりますが、これも少し違うような気がします。 軍隊を養うにはお金が必要ですから、税金を徴収しなければなりません。 税金を徴収するということは内政にも責任を持つということで、結局インペラトールは軍事・内政・外交全部の最高責任者となります。 広大な版図の最高責任者であり、その中には多くの王国を含んでいるのだから、王より偉い「皇帝」だと、明治の日本人は理解したのだと思います。 ではこのインペラトールは誰が任命したのだという問題が起きてきます。 支那の皇帝は理屈の上では絶対的な存在である「天」が任命しました。 一方のインペラトールは誰に任命されたのかはっきりしません。 暗殺されたカエサルの後を甥のオクタビアヌスが継ぎ、一般的には初代「皇帝」とされています。 オクタビアヌスは「われこそは広大なローマの最高責任者であるぞ」とは宣言していないのです。 都市国家であるローマに昔からある役職に片っ端から就任しただけです。 元老院議員になり、その中でも第一人者である「プリンチェプス」になりました。 また昔からの大統領にも就任しました。 ローマの神を祭る最高司祭にもなりました。 敵に勝った将軍が受ける名誉ある称号の「インペラトール」も名乗りました。 結局、インペラトールという新しい役職を合法的に作り出したわけではなく、なしくずしに実績を積み上げていったのです。 ローマに支那の「天」という思想があったら、彼は天命を受けたと宣言して皇帝の座に就いたと思いますが、多神教のローマには絶対的な神は存在しません。 キリスト教もまだありませんでした。 オクタビアヌスは軍隊という人間の集団の力を背景にして、インペラトールになったわけです。 宗教的な権威を利用しないでインペラトールになったというところが、支那の皇帝と違うところで、これがローマの歴史に大きな影響を与えます。 ローマのインペラトールは軍隊の力を背景にしていました。 軍隊の力でローマの伝統的な政体を骨抜きにしたわけですが、この体制が長期間続いたのは一般市民の支持があったからでした。 ローマ人は非常に軍事的で、彼らの大戦略は自国の安全を確保するということでした。 そのローマ人が、昔ながらの元老院よりインペラトールの体制の方を効率が良いと判断したわけです。 明治の日本人がインペラトールを皇帝と訳したのは、「世襲」という点でもふさわしくないと思います。 支那の皇帝や日本の天皇は嫡男が後を継ぐ世襲制ですが、これらが宗教的権威を背景にしており、軍事的な能力を基準にしていないからです。 軍事的能力は遺伝しませんから、軍事に基礎を置く権力は世襲ではありません。 ローマ人は軍事的な国民であり、インペラトールは総司令官が本質ですから世襲制になじみません。 初代インペラトールだったオクタビアヌスはカエサルの姉妹の子で、男系では一族ではありません。 その後のインペラトールも先代の嫡男というのは少なく、多くは先代の目に留まった男が婿養子となって後を継いでいます。 いったんインペラトールになっても、無能だと判断されれば軍隊によって暗殺されています。 ローマのインペラトール制も後半になると、軍隊が自分たちの司令官をインペラトールに推戴しています。 駐屯地の異なる軍団がそれぞれインペラトールを擁立し、複数のインペラトールが内戦を始めるということも頻繁にありました。 やはり、インペラトールは軍事的能力によって軍隊に選ばれた者なのです。 明治の日本人は、インペラトールを皇帝と訳すことによって世襲されていると誤解した結果、それ以前の伝統的な体制を「共和制」として対比させました。 「共和制」時代には能力のあるものが大統領になったが、「帝政」になると血統だけでその位に就いたと考えたわけです。 共和という日本語は、REPUBLICという英語を訳したものですが、この言葉の基はラテン語のRES PUBLICAです。 RES PUBLICAという言葉には「血統にかかわらず大統領になる」という意味はありません。 このことは、以前のブログにも書きましたから覚えている方もいると思います。 RES PUBLICAとは、「公共のために」という意味ですが、国家と言う意味もありこの場合はローマそのものを指します。 RES PUBLICAは、ローマ人が誇りを持って自分たちの国を呼んだ言葉です。 全てのローマ人が公共(PUBLICA)の方に向いていること、全てのローマ人が価値観を共有していることを意味します。 支配者が一般のローマ市民を力で押さえつけるのではなく、ローマ市民が共通して持っている価値観に基づいて政治を行うということで、別に支配者が世襲なのか否かは無関係です。 インペラトールを否定する言葉としてこの言葉を使い始めたのは、帝政派のカエサルやオクタビアヌスと敵対して殺されたキケロです。 元老院や民会を否定して軍隊の力を背景に政治をしたら、ローマ人の共通の価値観を守らない社会になってしまうと主張したのです。 同じ主張が遥か後世の18,19世紀に絶対王政と戦ったときにも出てきました。 だから英語のREPUBLICには、世襲の君主制を否定する意味もあります。 しかしこれがヨーロッパ人の多数の賛同を受けているわけではありません。 イギリスを始め多くの国が世襲の君主を戴いているのに、それが国民の利益を害しているとは思っていないからです。 ヨーロッパの場合、守るべき国民の価値観が先にあり、それを実行に移す政体はその都度判断していけば良いと考えているようです。 世襲の君主制の方が安定していて良いと思えば王様を残しておくし、「やはりボンボンには任せて置けない」と考えたら革命を起こせば良いのです。 判断の基準は国民が共通に持っている価値観です。 明治になってデモクラシーの概念が日本に入ってきましたが、良く分からない段階で訳語を作ったために概念の混乱が起きてしまいました。 REPUBLIC=世襲君主のいない政体=デモクラシーが実現される=最終的な目標 インペラトール=帝政=世襲君主=専制政治=いずれ廃止しなければならない悪い制度 という図式が出来てしまいました。 そして政体そのものが重視され、それが実現すべき国民の価値観の方は軽視されています。 小室直樹博士が「日本人のための憲法原論」で、日本人に共通の価値観であるはずの日本国憲法をまるで理解していないと嘆いている通りです。 ローマ人が考えたあるべき政治体制がRES PUBLICAでしたが、これが後世に伝わって英語のリパブリックになりました。 支配者と被支配者が共通の価値観を持ち、国家がこの価値観の実現に努力する政体を言います。 古代ローマも末期になって国家が弱体化し、また「皇帝」が専制政治を行うようになってこのRES PUBLICAも失われていきました。 永い中世を通じて、このRES PUBLICAという発想はカトリック教会の教義の中に取り入れられて生き延びます。 支配者と被支配者が共通に持つ価値観がキリスト教に置き換えられたのです。 即ち、神の正義を行うことがRES PUBLICAだというように考えられるようになったのです。 中世が終わってルネッサンスが起きると、古代ギリシャ・ローマの思想が復古しこれとキリスト教の神の正義の実現という考え方が結合しました。 国民に共通の正義を実現するための道具が国家であり、この共通の正義(デモクラシー)の背後にあるのがキリスト教だという近代政治思想になっていくのです。 ローマの建国以来の大戦略は自国の安全を守るというものでした。 そして守るべきものは、国民の生命・財産と固有の価値観でした。 この固有の価値観にはローマの政治体制や宗教・習慣がありました。 ローマの宗教はご存知の様に多神教で、ジュピターをはじめとして様々な神がいました。 ローマは移民を歓迎しましたが、彼らは自国の様々な神様を持ち込みました。 これらの外来の神にもローマは寛大で、様々な神がローマの中で共存共栄の状態になっていました。 各民族の信じる神を認めそれに干渉しないというのがローマ人の考え方で、この考え方もRES PUBLICAの一部になっていたのです。 ローマが版図を広げその中に様々な民族が含まれるようになりましたが、ローマ人はRES PUBLICAの考え方から彼ら固有の宗教を尊重しました。 このような状態のときにローマ人の価値観であるRES PUBLICAに挑戦したのがキリスト教だったのです。 キリスト教は一神教で、自分たちの神以外の存在を認めません。 この点で各民族の神々はそれぞれ存在を認めるというローマ人のRES PUBLICAとは相容れないのです。 キリスト教はユダヤ教から派生したもので一神教という点ではユダヤ教の方が先輩です。 ユダヤはローマの版図に入ってからはいつもローマ人に反抗的でしたが、これも一神教のためです。 ローマ人は日本人と同じように偉い人は神になると考えていました。 そして歴代のインペラトールは自分を神として礼拝することを皆に強制しました。 礼拝を強制するといっても各人に自宅で自分を礼拝せよと命じたわけではなく、国家的な儀式のときに神として礼拝させただけです。 ところがこれをユダヤ人はどうしても従いませんでした。 なにしろユダヤ人の神は「自分以外を神として礼拝してはならない」と十戒で定めているからです。 これは同じ「神」でもローマ人の神とユダヤ人の神の概念がまるで違う深刻な文化摩擦の一例です。 ローマ人にとってはそれこそゴマンといる神の一人だという気安い気持ちで礼拝を命じたのです。 各人は自宅でそれぞれの神を礼拝すれば良く、国家の公式の場ではインペラトールという神を礼拝すればよいという感じです。 しかしこれをユダヤ人は自分たちの神と対立する神の礼拝を強制されたと受け取ったのです。 そしてユダヤ人はたびたびローマに対して反乱を起こしました。 怒り心頭に発した一人のインペラトールなどは、エルサレムのユダヤ教の大神殿の中に自分の像を安置させたりしました。 このようにローマ人の共通した価値観(RES PUBLICA)とユダヤ教は非常に相性が悪かったのですが、ローマ人がユダヤ教を禁止することまではしませんでした。 それはユダヤ教が一つの民族の宗教であり、各民族の宗教を尊重することがローマ人のRES PUBLICAだったからです。 ユダヤ人は広大なローマの版図の様々な場所に移住していましたが、その町でシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝所)を作ることをローマ人は禁止しませんでした。 このようなときにイエス・キリストが現れ、新しいキリスト教という一神教が誕生しました。 このキリスト教に対しては、ローマ人は弾圧・禁止しました。 一つの民族の伝統的な宗教ではなく、ただの新興宗教の一つだったからです。 ローマが衰退していったその時に、キリスト教という新興宗教が物凄い勢いで信者を獲得していきました。 何故キリスト教が爆発的に勢力を増やしていったのかを理解するには、想像力が必要だと思います。 当時の人々は、今の世界とはかけ離れた生活環境にあったからです。 今の常識から判断しては彼らの心境は分かりません。 ローマの軍隊は弱くなり、蛮族に攻め込まれて人々は殺されたり奴隷にされたりという悲惨なことが頻繁に起こるようになりました。 国家が衰退するときはどこも同じで税金が高くなり、徴税の仕方が不透明で不公平になります。 ある国が上り坂にあるのか下り坂にあるのかは、税制を見れば簡単に判断できます。 ローマもそうで、勢いのあったときは公正で妥当な額の税が徴収されていました。 ところが蛮族相手の戦争が度重なるにつれて軍事費が増大し、市民は重税に苦しむようになりました。 またインペラトールの専制が強化されるに従って官僚群がやたらと増え、それらを養う金も必要になったのです。 蛮族に荒らされて農地は放置され、農民は村を後に安全な都市に流れ込んできました。 食糧生産の減少の為に全体の人口が大幅に減るなかで、農村の過疎と都市の過密が進行します。 どのぐらい人口が減ったのかははっきりとは分からないのですが、最盛期のローマの時まで人口が戻ったのは1000年以上後のルネッサンス時になってからのようです。 そして生活苦から盗賊が大発生して、流通網が破壊され商業や工業も大打撃を受けました。 経済が衰退する中での増税ですから、市民の生活水準は大いに低下しました。 生活水準が下がると、栄養不足や衛生状態の悪化のために人間は疫病に対する抵抗力が弱くなります。 こういう時に限って地震などの天災も多発します。 蛮族の侵攻、飢饉、疫病、官吏の苛斂誅求、盗賊の跋扈などで世の中が騒然としてきました。 古代ローマの衰退期を書いた歴史書はたくさんありますが、私はやはりギボンの書いた「ローマ帝国衰亡史」が一番面白かったです。 その理由は現代人ではなく少し昔の人が書いたからです。 ローマ史学者としてはモムゼンとギボンが有名ですが、モムゼンは20世紀の初めにノーベル文学賞を受けたドイツ人で現代人といっても良いでしょう。 20世紀はことさらに宗教の影響力を過小評価した「近代思想」の時代で、人間の行動を経済的な理由で説明しようとした時代でした。 宗教のことを書くと「保守反動」か「因循姑息」と思われる危険もあったのです。 ですから現代人が書いた史書も、宗教など人間の持つ不合理な情熱を無視する傾向があります。 明治人はちょうどこの時代のヨーロッパから様々な社会思想を輸入しましたから、ただでさえ宗教的な素養が無かったのが完全な宗教音痴になってしまいました。 「宗教はアヘンだ」という唯物論者の言葉が独り歩きしている状態です。 21世紀に入った今は、キリスト教の熱心な信者がアメリカの大統領になったりイスラム教の台頭などからも分かるように、この宗教を無視した態度の反省期に入っているようです。 EUもヨーロッパのキリスト教をベースにした共同体で非常に宗教的なものです。 イスラム教のトルコがEUに入るために悲壮な努力をしていますが、まあ無理でしょう。 EUのボスであるドイツとフランスは、19世紀の革命の影響で国家が宗教色を持つことを憲法が禁止しています。 トルコがEUに加盟を申請しても「イスラム教だからダメ」とは言えないのです。 だからローマ法王に「EUはキリスト教の共同体だ」などと側面から反対させています。 余談はさておき、もう一人の有名なローマ史学者であるギボン(1737~1794年)は18世紀のイギリス人です。 イギリスが世界を制覇する時期の人で、革命前のフランスを訪問し啓蒙思想家などとも交際し、フランス革命もその目で見ています。 彼はスクワイヤーという階級の生まれです。 スクワイヤーというのはイギリスの爵位で、サーと呼ばれる騎士階級の下に位置します。 完全な貴族ではありませんが庶民では絶対にありません。 ギボン自身も領地を持ち、何人かの召使と馬車を持っていました。 ジャンル別一覧
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